小説家と文芸翻訳家、どちらの訳書を読みたいですか?_文芸翻訳のコツ#15

文芸翻訳家の拠って立つところは文章力

 イメージする力、いわゆるイマジネーションは、何も作家だけに不可欠の資質ではありません。

 人間が人間であるために必要な資質と言ってもいいでしょう。したがって、「表現者」としての翻訳家を目指す貴方にとっても、肝心要の資質ということになるはずです。

 話は少し逸れますが、最近、作家と翻訳家が同じテキストを翻訳するということが盛んに行われています。その全てに目を通しているわけではないので軽々には言えないものの、表現(文章)に限って言えば、翻訳家のほうが上手いように思います。文章が綺麗に流れているし、何よりもわかりやすいのです。

 ところが、作家のほうの訳文は、翻訳慣れしていないということもあるのでしょうか、いわゆる翻訳調の生硬な文章が混在して読みにくいように思うのです。このような発言は、一般論ではないことをもう一度申し上げたいと思います。いずれにしても、作家の真骨頂は、どう書くかよりも、何を書くか、何を読者に伝えたいかにあるのでしょう。

 ひるがえって、文芸翻訳家の拠って立つところはその文章にしかありません。そうだとすれば、我々は文章をひたすら磨くしかないのです。英語と日本語がない交ぜになったような、日本人読者からは「意味不明」との声が上がるような日本語訳では、どうすることも出来ません。そしてそのためにもっとも必要な資質が、イマジネーションだと言っているのです。

優れた訳文を生み出すのはイマジネーションの力

 英語を日本語に翻訳するだけなら、それは高校・大学でよくやる英文和訳に過ぎません。その場合、日本語はあくまでも、英語に付いて回る“二番目”のものなのです。翻訳のクラスで、誤訳を指摘すると、慌てて英文をチェックする方がいらっしゃいます。誤訳と言われて、つまり貴方の日本語訳は意味不明だと言われて、どうして英文を見ようとするのか理解できません。

 文芸翻訳はあくまでも、日本人の読者が相手なのですから、日本語がしっかりしていない限り、その文章はいつまで経っても“誤訳”だらけなのです。

 僕は翻訳するにあたって、まず原作を読みます。
それもパラグラフ毎です。
その意味を取ったら、後はすべて日本語で考えます

そのパラグラフの内容をどのような日本語にすればいいか? 文章の並べ方も自由です。原文の最後の文章が、翻訳文の最初になることもあります。仕方がないでしょう。僕は日本語にとって、そうするのがベストだと信じるのですから。

 僕はよく、半分冗談めかしてですが、「たとえ誤訳だらけの訳文であっても、もしそれが流麗な訳文で終始しているなら、良しとする」と言ったことがあります。まあ、内容が違っていたら、どれほど訳文が優れていても翻訳書にはなりにくいのでしょうが、僕の言いたいことはおわかりいただけるでしょう。

 自分の体験したことを表現するのが、一番容易ではあります。しかし、人殺しや死の瞬間などの場面は、それこそイマジネーションを駆使して表現するしかありません。それが読者を納得せしめるレベルのものかどうか、それは原作者と同様、翻訳者の責任でもあることをしっかり認識すべきなのです。